『ザ・ボーイズ』が映すアメリカ:後期資本主義・ファシズム・分極化の人文学的解読

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1:ポスト・トゥルース時代におけるスーパーヒーロー神話の解体と再構築

Amazon Prime Videoが配信するオリジナルドラマシリーズ『ザ・ボーイズ』(The Boys)は、ガース・エニスとダリック・ロバートソンによる同名のコミックを原作とし、エリック・クリプキによって開発されたアメリカの風刺的スーパーヒーロードラマである。表層的なプロットにおいて本作は、超能力を持つ人間(スープス)が自らの能力を私欲のために乱用し、それを巨大企業「ヴォート・インターナショナル」(Vought International)が隠蔽・管理する世界を舞台としたブラックコメディおよびスリラーとして機能している。物語は、恋人をスーパーヒーローに理不尽に殺害された青年ヒューイ・キャンベルと、元CIA工作員ビリー・ブッチャーが率いる自警団「ザ・ボーイズ」が、ヴォート社の看板ヒーローチーム「セブン」と、その冷酷なリーダーであるホームランダーに立ち向かう姿を描く。

しかし、人文学の視座、とりわけカルチュラル・スタディーズ、社会学、政治学、メディア論の交差する視点から本作を分析すると、このドラマは単なる娯楽の枠を大きく越え、現代アメリカ社会が抱える後期資本主義の矛盾、ネオリベラリズムの暴力性、ファシズムの台頭、そして極度な政治的分極化に対する鋭利な社会的・政治的批評として立ち現れる。伝統的なスーパーヒーローの物語は、歴史的にユダヤ・キリスト教的アレゴリーや道徳的羅針盤としての役割を担い、弱者を救う絶対的な善として、あるいはアメリカの例外主義を肯定する神話として描かれてきた。これに対して『ザ・ボーイズ』は、そうした絶対的権威への無批判な信仰を意図的に解体し、スーパーヒーローを根本的に欠陥があり、反道徳的で、自己顕示欲に塗れた精神的病理を抱える存在として再定義している。

本稿では、本作がアメリカ社会においてどのような歴史的・社会的文脈で生産され、どのように観客に受容(あるいは誤読)されてきたのかを、エビデンスに基づき包括的に論じていく。とりわけメディア・リテラシーの二極化を体現する右派やオルタナ右翼のファン層の動向を、ひとつの社会現象として取り上げる。

2 「パフォーマンスの社会」とアンチヒロイズムの社会学的分類

『ザ・ボーイズ』の物語世界を駆動する理論的背景のひとつに、韓国出身の哲学者ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han)が提唱した「パフォーマンスの社会」(Society of Performance)の概念がある。この社会では、人々の行動原理は内発的な道徳や倫理ではなく、外部からの評価、とりわけメディアを通じた可視性と経済的価値に完全に従属している。

本作におけるヒーローたちは、自発的な自警団ではなく、軍産複合体や多国籍企業を体現する巨大企業「ヴォート・インターナショナル」に雇用されたライセンス社員である。ヴォート社は、軍への防衛契約を推進しながら、裏ではナチスに由来する薬物「コンパウンドV」を用いて、白人が94パーセントを占めるスーパーヒーローを秘密裏に製造している。

社会学的に整理すると、本作の登場人物群は、このパフォーマンスの社会への適応と逸脱の度合いに応じて、3つのアンチヒロイズムの形態に分類できる。


類型 定義と社会的機能 代表的キャラクターとその病理
根源的アンチヒロイズム(Fundamental Antiheroism) 権力の腐敗と道徳の完全な崩壊を体現する。社会的な絆が病理的で、他者への共感能力が著しく欠如している。 ホームランダー:極度のナルシシズムとサイコパス的傾向を隠し、メディア向けに完璧な偶像を演じる。ディープ:身体的魅力を利用した性的搾取を行い、計算高いPRのためにカルト宗教を利用する。トランスルーセント:透明化能力を盗撮や侵略的行為に用いる。
潜在的アンチヒロイズム(Latent Antiheroism) 当初は周囲の残酷さに無関心、あるいはシステムに順応しているが、他者の苦境や自身のトラウマに直面することで徐々に人間性を回復していく。 クイーン・メイヴ:企業の論理に押しつぶされ冷笑的になっていたが、ホームランダーの暴走を機に反旗を翻す。キミコ:実験体として獣のような暴力を振るうが、深い家族愛を持つ。
実用主義的アンチヒロイズム(Pragmatic Antiheroism) 超能力の有無にかかわらず、道徳性よりもビジネスの成果、企業のブランド維持、ダメージコントロールを最優先する冷徹な企業論理を体現する。 マデリン・スティルウェル/スタン・エドガー:人命や倫理よりも株価とリスク管理を優先し、ヒーローの犯罪行為をPR戦略で隠蔽する経営層。

この分類から明らかなように、『ザ・ボーイズ』の世界では、スーパーヒーローの存在意義は利他主義的な人命救助ではなく、高視聴率の維持、ブランドの保護、巨額の軍事契約獲得のためのパフォーマンスへと変質している。公的なイメージと私的な病理の間のギャップは、企業マネージャーによって厳格に管理される。

たとえば、スターライトがディープによるセクシュアル・ハラスメントを公に告発した際、企業側は被害者の救済よりも企業アイデンティティの保護を優先し、即座にPR戦略の転換を図って事態を矮小化した。クイーン・メイヴのセクシュアリティが発覚した場面では、彼女の個人的な葛藤は黙殺され、LGBTQコミュニティという新たなニッチ・マーケットを開拓するためのキッチュな映画のプロモーション材料として徹底的に搾取される。個人のアイデンティティすらも資本の論理に回収し、パフォーマンスの指標として消費する現代社会のグロテスクな戯画化が、ここに浮かび上がる。

3 ネオリベラリズムと軍産複合体:ヴォート社が体現する後期資本主義

『ザ・ボーイズ』の批判の矛先は、個々のスーパーヒーローの道徳的欠陥にとどまらない。彼らを生み出し、管理し、搾取する構造的な暴力、すなわちネオリベラリズム(新自由主義)と後期資本主義へと向けられている。ネオリベラリズムは、20世紀後半以降の支配的な経済・社会論理であり、福祉国家的な保護を解体し、民営化、金融化、過度な個人主義と自己責任論を推進するイデオロギーである。本作の物語は、この論理が極限まで進行したディストピアとして読み解ける。

伝統的なスーパーヒーロー映画では、ヒーローたちは巨悪を倒すために結集する。ところが本作の「セブン」は、誰がどれだけの利益分配(シェア)を得るかを巡って絶えず言い争っている。彼らの最も価値ある資産は「犯罪と戦う能力」ではなく、「より大きな富を引き寄せる能力」、すなわち集客力やグッズの売上である。初期シーズンでは、銀行強盗や大量殺人犯といった実際の犯罪者に対処する姿も描かれていたが、シリーズが進むにつれて、彼らが対峙する危機の多くはヴォート社が人為的にでっち上げたもの(スーパー・テロリストなど)であることが露呈する。ヒーローたちの実態は法執行機関ではなく、美化された映画スターに過ぎない。彼らによる人命救助は、プロのカメラクルーが待機する中で行われる、入念に計算されたメディア・スタントなのである。

さらに本作は、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のような現実のスーパーヒーロー・エンターテインメントと軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)の癒着構造を痛烈に当てこすっている。メディア研究者の調査によれば、現実のアメリカ国防総省は『アイアンマン』や『キャプテン・マーベル』などの作品に資金や機材を提供しており、プロパガンダおよび軍のリクルートメントとしてスーパーヒーロー映画を利用してきた歴史を持つ。国防総省のハリウッド連絡窓口は、『アベンジャーズ』の初期段階において、劇中の「S.H.I.E.L.D.」という超国家機関が米軍よりも上位の権威として描かれていることに不快感を示し、関与を取りやめたというエピソードも残っている。

『ザ・ボーイズ』シーズン1の核心的なプロットは、民間のスーパーヒーロー・コングロマリットであるヴォート社が、防衛契約の領域に潜り込もうとする画策である。ヴォート社は、スーパーパワーを持つ兵士(スープス)を軍に売り込むことで、年間4000億ドル規模と言われる世界の兵器産業における独占的地位を一夜にして確立しようと目論む。ここで描かれるのは、国家と資本の間の複雑な関係性である。国家は資本と密接に結びつきながらも、自らの独占的な暴力装置である軍隊を私企業に明け渡すことには抵抗を示す。結果として、ヴォート社の野望を阻止するために送り込まれる「ザ・ボーイズ」自身がアメリカ政府(CIA)の支援を受けた特殊部隊であるという構図は、民主的資本主義が内包する自己矛盾の鮮やかなアレゴリーとなっている。

スターライトが企業の腐敗を内部告発しようとした場面で、彼女は別のヒーローから「金に手を出すな(You don’t fuck with the money)」と脅迫される。これは、資本主義下の社会関係が能力や知性、ジェンダー、あるいは空を飛ぶ能力によって決定されるのではなく、富の生産手段を所有する者が絶対的な権力を握るというマルクス主義的な真理を端的に示すセリフだ。音速で走れる男(Aトレイン)や太陽の力を操れる女(スターライト)でさえも、独占企業と資本家階級の力の前では恐怖に震えるしかない。労働者がいかに強大であっても資本の包摂からは逃れられないという、構造的無力感の描写である。

4 資本主義リアリズムと「回収」のアイロニー:Amazonによる反資本主義の流通

『ザ・ボーイズ』の批評性を学術的に論じる上で最大のパラドックスは、痛烈な反資本主義・反企業・反独占的なメッセージを持つ作品が、世界最大規模の多国籍企業であり独占的プラットフォームでもあるAmazonによって制作・配信されているという事実である。

文化理論家マーク・フィッシャー(Mark Fisher)が2009年の著書で提唱した「資本主義リアリズム」(Capitalist Realism)は、「資本主義が唯一の実行可能な政治・経済システムであるだけでなく、それに対する一貫した代替案を想像することすら不可能になっている」現代社会の広範な諦念と閉塞感を示す概念である。フィッシャーは、資本主義リアリズムが代替案の想像不可能性を強制する一方で、奇妙なことに「ある種の反資本主義」の存在を許容、さらには奨励していると指摘する。スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)が論じるように、ハリウッド映画やメインストリームのメディアにおいて、ヴィランが邪悪な巨大企業として描かれることは日常茶飯事である。だが、こうした身振りとしての反資本主義(gestural anti-capitalism)は、資本主義リアリズムを突き崩すどころか、むしろそれを強固に補強する役割を果たす。


この枠組みにおいて、『ザ・ボーイズ』がAmazon Primeで配信されているという事実は、資本主義による反体制的イデオロギーの「回収」(Recuperation)の究極の事例と呼べる。回収とは、急進的なアイデアや抵抗運動の表象を、支配的な体制が自らの利益のために商品化し、無害化して吸収するプロセスを指す。視聴者はAmazonのプラットフォームを通じて本作を消費し、劇中の悪徳企業ヴォートに怒りを覚え、後期資本主義の腐敗に留飲を下げる。しかしこの行為自体が、Amazonという巨大企業にサブスクリプション収益とデータをもたらすという構造に完全に組み込まれている。

社会主義的観点からの分析によれば、Amazonの経営層は、ヴォート社やホームランダーに自己投影したから、あるいは自虐的なユーモアとしてこの企画を承認したわけではない。承認の理由はただひとつ、「この作品が利益を生むと判断したから」に他ならない。たとえ作品のテーマが明示的に反資本主義的であっても、視聴者を惹きつけ利益を生むのであれば、資本は自らを批判するコンテンツすらも嬉々として生産し販売する。古くからの格言に「資本家は、自分たちを縛り首にするためのロープすらも売りつけてくる」とある通りである。

『ザ・ボーイズ』の反資本主義的メッセージは、視聴者に「代わりに革命的な思考をしてくれる」(doing the revolutionary thinking for you)遅効性の鎮静剤(late stage pacifying agent)として機能している、と分析される。視聴者はドラマを見ることでカタルシスを得て、社会システムの不条理に対するフラストレーションを安全に消費する。巨大企業は、観客が自らの不安や体制への不満を解消するためのハイパーリアリティを提供し、現実の社会構造を変革しようとする実践的なエネルギー、たとえば労働組合の結成やストライキといった行動を削ぎ落としているのである。

最終シーズン(シーズン5)に向けて、本作の真のヴィランがホームランダーやヴォート社ではなく「資本主義そのもの」であることがより明確に提示されているという分析もある。だがそれをAmazonが配信し続けるというメタ的な構造自体が、メディアと資本の共犯関係を証明し、資本主義リアリズムの圧倒的な強靭さを示している。

5 比較文化論的視座:『ウォッチメン』と『ザ・ボーイズ』におけるファシズムの脱構築

スーパーヒーローというジャンルを通じてアメリカの病理を解体するアプローチにおいて、『ザ・ボーイズ』はしばしばアラン・ムーア原作の『ウォッチメン』(Watchmen)と比較される。両作品は共に、スーパーヒーローを慰めをもたらす救世主としてではなく、企業、軍隊、ファシスト的な権力を統合する存在、あるいは血に飢えた反動主義者として描くことで、アメリカのファシズムと自警団主義(ヴィジランティズム)を脱構築している。だが、両者の批評の力点は明確に異なる。

『ウォッチメン』、とりわけHBOのテレビシリーズ版は、アメリカにおける自警団の歴史が、高貴なマスクの十字軍ではなく、クー・クラックス・クラン(KKK)のような人種差別的テロリストに端を発しているという人種的文脈に焦点を当てている。劇中に登場する白人至上主義テロリスト組織「第7機兵隊」(7th Kavalry)は、極右的な加速主義(社会を不安定化させるための暴力の肯定)を掲げ、現実世界のQAnonやプラウド・ボーイズ、ブーガルー・ボーイズといった過激派運動のパラレルとして機能する。原作者のアラン・ムーアは、ロールシャッハというキャラクターを意図的に身体的・社会的に嫌悪感を抱かせる存在として設計し、ミソジニーやホモフォビアに満ちた人物像を通じて、彼が信奉するアイン・ランド的な超人(übermensch)思想が潜在的な白人至上主義のマスターレースの夢に他ならないことを示唆した。ロールシャッハが犯罪者を「害虫」(vermin)「ゴキブリ」(roaches)と動物化して呼ぶレトリックは、歴史的に階級格差や人種差別を無視し、特定集団の絶滅を正当化するために用いられてきたレイシャル・コード(人種的暗号)である。

対照的に『ザ・ボーイズ』が脱構築するのは、自警団としてのヒーローではなく、徹底的にシステム化された「企業・軍事ファシズム」(Corporate-Military Fascism)である。スーパーヒーローは独立した存在ではなく、ナチスの薬物(コンパウンドV)から生まれた多国籍企業の製品である。ホームランダーが20世紀的な物理的・軍事的なナショナリズムのメタファーであるとすれば、彼と結託するスタン・エドガーCEOは「後期資本主義がいかにして利益のためにファシズムに加担するか」を体現する。ヴォート社は、過激な思想を持つヒーロー、後述のストームフロントのナチス的背景を認識していながら、それがもたらす怒りが株価を押し上げる限りにおいて構造的な改革を行わず、単なるPRの危機管理としてのみ処理する。この冷徹な描写は、現代のグローバル企業が社会的責任(CSR)を掲げながらも、根源的には利益至上主義のためにいかなる非倫理的イデオロギーとも結託し得るという、資本主義のグロテスクな実態をえぐり出している。

6 トランプ主義とデジタル・ファシズムの克明な表象

『ザ・ボーイズ』の政治風刺としての最も顕著な特徴は、現代アメリカの政治的分極化、特にドナルド・トランプ政権期から現在に至る右派ポピュリズムの隆盛と極右的過激化を直接的に反映している点にある。

6.1 ホームランダーとドナルド・トランプの政治的軌跡のアナロジー

本作の中心的な敵役であるホームランダーは、スーパーマンのアナロジーでありながら、星条旗のケープをまとい、極端なナショナリズムと自己愛、そして他者への共感の欠如を体現するキャラクターである。ショーランナーのエリック・クリプキは、ホームランダーが「完全なる弱さと不安、そして恐ろしい権力と野心の可燃性の混合物」であり、初期設定の段階から常にドナルド・トランプのメタファーであったことを明言している。

初期のシーズンにおいて、ホームランダーはヴォート社の経営陣に操られる企業的傀儡(パペット)としての側面を持っていた。しかし彼は次第に自らの権力に目覚め、大衆の支持を背景にシステムを破壊し、暴走していく。この変遷は、現実世界におけるトランプの政治的軌跡、すなわち当初は既存のエリート層から泡沫候補や単なるエゴイストとして扱われていた人物が、やがて熱狂的な支持層を獲得し、共和党というシステムそのものを掌握していく過程と、不気味なほどに重なる。「アメリカを救う」というスローガンや、誠実なキリスト教徒の集会で彼が語る「アメリカ的なこと、正しいこと(Sounds like the American thing to do, sounds like the right thing to do)」というセリフは、そのままトランプのラリー(政治集会)での演説を模倣したものである。


シーズンが進行するにつれ、このアナロジーはより露骨なものとなる。ホームランダーが右派のニュース・ネットワーク(Fox NewsをパロディしたVought News)でプラットフォームを与えられ、ポリティカル・コレクトネスを無視した過激な発言をするほどに支持率が急上昇する現象は、現代のポピュリズム政治における反知性主義的な感情の解放が、いかに強固な政治的資本に変換されるかを克明に描いている。シーズン3のラストで、ホームランダーが白昼堂々と、自分に反対する一般市民をレーザーで惨殺したにもかかわらず、支持者たちから大喝采を浴びるシーンは、トランプが2016年の選挙戦で放った「ニューヨークの5番街の真ん中で人を撃っても支持を失わない」という悪名高い発言の直接的な映像化と読める。シーズン4およびシーズン5においては、2021年1月6日の連邦議会議事堂襲撃事件を想起させる政治的暴動、大統領執務室の掌握、さらには現実のICE(移民関税執行局)の収容所と区別がつかない「自由の収容所」(freedom camps)の設立など、現実世界のアメリカ政治の暗部がそのまま物語にトレースされている。

6.2 ストームフロントとデジタル時代のアルゴリズム的過激化

本作は、ホームランダーに象徴される20世紀的な物理的・カリスマ的ファシズムと並行して、21世紀のデジタル空間における新しいファシズムの形態も鋭く解剖している。その中心となるのが、シーズン2で登場するスーパーヒーロー、ストームフロントである。

ファシズムの表象形態 伝統的・カリスマ的ファシズム(ホームランダー) デジタル・アルゴリズム的ファシズム(ストームフロント)
権力基盤 圧倒的な物理的暴力、カリスマ性、伝統的なアメリカの象徴(星条旗) ソーシャルメディア、ミーム、マイクロターゲット広告による情報操作
大衆操作の手法 恐怖と畏怖、テレビ演説を通じた直接的な権威の誇示 怒りと被害者意識の扇動、アルゴリズムを利用したエコーチェンバーの構築
イデオロギーの伝播 アメリカ例外主義、力による服従の要求 白人至上主義(隠れナチス)、白人ジェノサイドなどの陰謀論の拡散
現実世界の対応物 伝統的な強権的指導者(ストロングマン)、ドナルド・トランプ的な権威主義 ケンブリッジ・アナリティカのデータ戦略、4chan/8chanの匿名掲示板、オルタナ右翼のインフルエンサー

ストームフロントの真の正体は、第二次世界大戦を生き延びた本物のナチス党員である。だが彼女の政治的手法は極めて現代的だ。大衆が「普遍的な愛」や「平和」といった抽象的な概念よりも、特定の対象への怒りや被害者意識によって容易に動員されることを彼女は熟知している。ケンブリッジ・アナリティカ(Cambridge Analytica)やトランプ陣営のデジタル責任者ブラッド・パルスケール(Brad Parscale)の手法を模倣し、彼女はマイクロターゲット型の政治広告やネットミームを利用して社会の分断を意図的に煽る。「白人ジェノサイド」、すなわち有色人種や移民によって白人が計画的に排除されているという陰謀論のナラティブを巧みに使い、保守的なメディア(Vought News)を通じて、外部からの侵略者に対する恐怖を煽り立てる。

このプロパガンダの恐ろしさは、劇中のあるエピソードで頂点に達する。ストームフロントの言説や陰謀論に日常的に触れていた若い男性ファンが、パラノイア的な怒りを募らせ、パンジャブ系のコンビニエンスストアの店員を「スーパーヴィランに見えた」という妄想的な理由で銃撃する事件を引き起こすのである。このローンウルフ(一匹狼)型のテロリズムの描写は、SNSのエコーチェンバー現象や、オルタナ右翼系掲示板(4chanなど)を通じたオンラインの過激化(radicalization)が、いかにして現実の物理的暴力、すなわちヘイトクライムや銃乱射事件に直結しているかという社会学的メカニズムを、極めて精緻にドラマ化したものである。

7 メディア・リテラシーの崩壊とファンダム内の文化戦争

本作をめぐる社会現象として注目すべきは、作品が意図した政治的メッセージと、アメリカ国内の一部視聴者、特に右派、保守派、オルタナ右翼のあいだの受容に生じた決定的なズレ、そしてそれに起因するファンダム内の文化戦争(Culture War)である。

7.1 オルタナ右翼によるイデオロギー的誤読と「偶像化」のメカニズム

『ザ・ボーイズ』は、企画段階から明確な右派ポピュリズムおよびファシズムのパロディとして制作された。にもかかわらず、放送初期から一定数の右翼的なファンを引き付けてきた。彼らは、ホームランダーの権威主義的で排外的な振る舞いや、マイノリティや「Woke」(目覚めた、左翼的)な価値観、ポリティカル・コレクトネスを力で粉砕する態度を、風刺ではなく「称賛すべきアンチヒーローの姿」として受け取り、自己投影の対象とした。

このメディア・リテラシーの欠如とも呼べる現象は、フィクションの枠を超えて現実の政治運動にも波及した。トランプ支持者たちが集う「MAGAラリー」(Million MAGA March)などの現実の政治集会において、参加者がホームランダーのコスプレをして抗議活動や寸劇、たとえばジョー・バイデンを逮捕する真似などを行う姿が幾度も目撃されているのである。制作者側がファシスト的なスーパーマンの痛烈なパロディとして造形したキャラクターが、現実の極右運動や大衆主義的ナショナリズムのアイコンとして無批判に消費されるという事態は、保守派のファン層が作品のコンテクストを完全に脱臭し、自分たちのイデオロギーを肯定するシンボルとして再文脈化したことを意味する。ホームランダーを演じる俳優アントニー・スター自身も、トランプ支持者によるこのコスプレ行為に対し「無知による愚行の極み」(the art of ignorant dumbfuckery)と激しい不快感を表明し、キャラクターの意図が完全に誤解されていることを指摘した。

7.2 風刺の「直接化」と右派層のバックラッシュ

ショーランナーのエリック・クリプキは、視聴者層の中に悪役を本物のヒーローだと信じて疑わない人々がいることに驚愕し、シーズンが進むにつれて風刺のトーンを意図的に直接的で露骨なものへと変更していった。クリプキはインタビューで「世界はより粗野に、よりエレガントではなくなっている」と述べ、トランプ主義の異常性が現実世界で加速している以上、風刺もそれに合わせて洗練さを捨て、直接的な批判を行わざるを得なくなったと語っている。

シーズン3やシーズン4でホームランダーの政治思想の空虚さや、彼を支持するオルタナ右翼のカリカチュアがより直接的に描写されるようになると、これまで作品を支持していた右派ファン層は突如として梯子を外された形になった。彼らは「番組の質が落ちた」「Wokeに乗っ取られた」「自分たちの政治観が不当に攻撃されている」と激しく反発し始めたのである。たとえば、フレンチー(主要キャラクターの一人)が同性の恋人と関係を持つ描写が登場した際には、それが「唐突すぎる」という批判を装いつつ、実際には作品にLGBTQの可視性が高まることへのホモフォビア的な嫌悪感がバックラッシュの原動力となっていた、と指摘されている。

この反発の象徴的な出来事として、X(旧Twitter)の所有者であり世界有数の富豪であるイーロン・マスク(Elon Musk)による批判が挙げられる。マスクはシリーズ最終盤の展開やホームランダーの無惨な扱われ方に対して「フェイクでゲイ」(fake and gay)「惨め」(pathetic)とSNS上で非難した。クリプキはこの反応を逆手にとり、Instagram上で「世界一の富豪が(自分への批判だと気付いて)簡単に釣られた」と嘲笑したが、これは単なるセレブリティ同士の口論を超えた意味を持つ。マスクのような巨大テック企業のリーダーが、ホームランダーというキャラクターを擁護し番組を非難する姿は、現代アメリカにおけるリテラシーの二極化を示す社会学的ケーススタディである。一部の観客は、複雑な風刺を解読する能力を持たないか、あるいは認知的不協和を避けるために意図的に作品の意図を歪曲して受容している。現実世界の政治情勢が悪化する中で、風刺が風刺として機能しなくなり、現実の戯画化が単なる事実の羅列に成り下がってしまうというポスト・トゥルース時代の悲劇が、本作の受容史に刻み込まれているのである。

8 参加型文化とデジタル市民権の実践:能動的な視聴者像

誤読し反発するファン層とは対照的に、デジタル環境において本作の物語を積極的に再解釈し、政治的議論のツールとして用いる極めて能動的な観客の存在も、カルチュラル・スタディーズの観点から確認されている。

X(旧Twitter)などのSNS上の言説分析によれば、視聴者は単なる受動的なコンテンツの受け手(passive receiver)ではなく、作品のコンテンツを「記号的アクティビズム」(symbolic activism)の手段として変容させる、参加型文化(participatory culture)の実践者である。ホームランダーの劇中のセリフや行動を、現実の政治家の権威主義的行動と比較したり、ヴォート社の悪質なメディア操作のシーンをスクリーンショットや動画のクリップとして引用し、現実世界のフェイクニュースの流布や大手メディアの欺瞞を可視化・批判したりする行為が日常的に行われている。

このような実践は、デジタル空間における「意味の移動」(migration of meaning)を促進し、視聴者がコンテンツの消費者にとどまらず、メッセージの「共同制作者」(co-author)となる現象を示している。視聴者はドラマの物語世界を自らの政治的・社会的経験を通じて文脈化し、ヘゲモニー(覇権的)なナラティブに疑問を投げかけ、オルタナティブな解釈を生み出す。研究者によれば、この現象は伝統的なファンダムの枠、すなわちキャラクターへの愛着やオタク的消費を超え、メディアを通じた「批判的市民権」(critical media citizenship)の行使へと発展している。

『ザ・ボーイズ』の真の社会的な批評威力は、脚本家が描いた物語そのものにのみ内在するのではない。その風刺がデジタル空間における視聴者の参加と解釈的実践を通じて政治的に「活性化」(activated)される、動的なプロセスの中に存在しているのである。

9 ジェンダー表象における風刺の限界と家父長制の残滓

本作は、資本主義の構造的暴力や男性中心的な権威主義、白人至上主義に対する見事な解体を行っている。一方でフェミニズム的視座からは、ジェンダーの力学に関する自己矛盾や批判的限界も厳しく指摘されている。男性キャラクターとその権力構造、すなわち軍産複合体、巨大企業、ファシズムには緻密で不条理な風刺が容赦なく向けられている。それに対し、物語における女性キャラクターの扱いは、依然として旧態依然とした家父長制的なメディア表象の枠組みから完全には脱却できていない部分があるという批判である。

「The Problem with the Boys is the Girls(『ザ・ボーイズ』の問題点は女性たちにある)」と題された批評が指摘するように、本作の女性キャラクター、たとえばスターライトやクイーン・メイヴ、あるいはキミコは、しばしばその性的魅力や、男性キャラクターとのロマンチックな関係性、あるいはヒューイやブッチャーといった男性主人公たちの内面的成長や覚醒を促すための触媒(プロット・デバイス)として物語の中で機能している傾向が否めない。

マーガレット・アトウッドの『ハンドメイズ・テイル(侍女の物語)』や、クリスティーナ・ダルチャーの『ヴォックス』(Vox)、ナオミ・アルダーマンの『パワー』(The Power)のような作品は、家父長制の支配構造や性的暴力に対する女性主導の鋭い風刺を見事に構築し、権力が移行した際の社会の力学を克明に描いている。これに対して『ザ・ボーイズ』は、男性権力の醜悪さを暴くプロセスにおいて、皮肉にも女性を構造的な周縁に配置し続けるというパラドックスを抱えていると批評家は論じている。女性キャラクターに主体性が与えられる場面においても、それは多くの場合、男性が支配するシステム内でのリアクションに留まっている。

本作はマクロなレベルでの政治的・経済的抑圧、すなわちネオリベラリズムやファシズムを完璧に描写・批判している反面、ミクロなジェンダー・ポリティクスにおいては、批判対象であるはずの既存のハリウッド・エンターテインメント業界の悪癖、いわゆる「男性のまなざし」(male gaze)を部分的に再生産してしまっている。権力構造を批判する作品が、その批判の言語を構築する過程で、無意識に既存のジェンダー階層を再強化してしまうという事象は、現代の大衆文化における風刺の限界を示す重要な事例である。

10 結論:ポスト・トゥルース時代における抵抗と消費の境界

以上の人文学的、社会学的、メディア論的なエビデンスに基づく分析から、Amazon Primeの『ザ・ボーイズ』は、現代アメリカ社会が直面する多層的な政治的・文化的危機の精密な縮図として機能していることが浮かび上がる。

第一に、本作はポスト・トゥルースおよび後期資本主義時代における「英雄像」の不可能性を提示している。ネオリベラリズムの論理によって人間の道徳さえも商品化された「パフォーマンスの社会」では、正義や人命救助すらも企業の株価を維持し、防衛契約を勝ち取るためのPRツールに過ぎない。そして、その徹底的な反資本主義・反企業的なメッセージそのものが、Amazonという現実の巨大プラットフォームを通じて流通・消費されているというメタ的な構造は、資本主義リアリズムの最も強力な回収のメカニズムを体現している。資本は自らを批判するコンテンツすらも商品化し、大衆のルサンチマンを安全にガス抜きさせることで、体制の存続を図るのである。

第二に、本作の政治風刺は、トランプ主義の台頭や、デジタル空間における新興ファシズム、すなわち白人至上主義的ミームや陰謀論のアルゴリズム的扇動の構造を的確に解剖している。ホームランダーやストームフロントを通じたキャラクター造形は、現実世界のポピュリズムがいかにして大衆の恐怖、怒り、被害者意識を収奪し、独裁的な権力へと変換していくかの社会学的メカニズムを描き出している。

第三に、本作の受容過程そのものが、現代アメリカの極端な分極化とメディア・リテラシーの崩壊を浮き彫りにした。意図された風刺を読み取れず、ファシスト的キャラクターを現実の政治集会で偶像化するオルタナ右翼の存在や、イーロン・マスクに代表されるように風刺が直接的になった途端に激しいバックラッシュを起こす現象は、視聴者が自らのイデオロギー的フィルターを通じてしかメディアを消費(あるいは誤読)できなくなっている現状を証明している。同時に、一部の視聴者は本作の文脈を逆手に取り、現実世界の権力構造を批判する批判的デジタル市民権の実践の場として利用しており、作品そのものがイデオロギーの代理戦争(Culture War)の主戦場となっている。

ジェンダー表象における限界を内包しつつも、これほどまでに現実の社会力学と複雑に絡み合ったテレビシリーズは類を見ない。総じて言えば、『ザ・ボーイズ』は単なるスーパーヒーロー・ジャンルの脱構築にとどまらない。それは、巨大資本と権力がいかにして人間の倫理を腐敗させるか、そして分断されたアメリカ社会がいかにしてフィクションと現実の境界を見失っているかを映し出す、極めて重層的かつ冷徹な鏡像である。本作を分析することは、現代アメリカが抱える絶望の深さを測ることと、ほぼ同義なのである。

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