火曜日, 5月 26, 2026

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調布が消した伝説の漫画家・畑中純 アート界ではつげ義春・水木しげるよりも評価を受ける――調布・多摩川という場所と、つげ義春・水木しげるとの比較

都市は何を記憶し、何を忘れるか ある地域の風土が作家の原風景となり、その創作を決定づける例は珍しくない。かつてサブカルチャーとされた漫画は、いまや日本を代表する文化資本となり、自治体の「まちおこし」でも重要な資源として活用されている。東京都調布市は、大映や日活の撮影所が置かれた「映画のまち」として知られる一方、多くの漫画家が暮らし、独自の文化圏を築いてきた土地でもある。 現在の調布市は、「水木マンガの生まれた街」として水木しげるを大々的に顕彰し、同市に50年以上暮らしたつげ義春の大規模な展覧会も開いている。漫画家を文化政策の中心に据えているのである。だが、その華やかな顕彰の影で、都市の公的な記憶からこぼれ落ちた表現者がいる。土俗的なエロスと旺盛な生命力を描き、木版画でも高い評価を得た漫画家・畑中純(1950〜2012)である。80年代までサブカルチャー文脈においてはつげ義春が評価をされてきたが、90年代以降、サブカルチャー系のアート界や、実際に漫画を知る漫画編集者に絶対的な評価を受けてきたのが、畑中その人だ。 畑中は調布や多摩川を舞台にした傑作を残し、実際に同市で地域に根ざした活動を続けた。それにもかかわらず、いまの調布市の公式な文化振興や観光PRの文脈では、ほぼ「忘れられた漫画家」となっている。これは、都市が「何を記憶し、何を忘れるか」という文化行政の選別を、はっきりと映し出す現象だ。対照的に、出身地である福岡県北九州市は、北九州市漫画ミュージアムを中心に彼の業績を地域の重要な遺産として手厚く保存している。同じ作家をめぐる二つの自治体の落差は、それ自体が興味深い。 本稿は、畑中純という稀有な作家の表現世界をあらためて評価し、作品に深く刻まれた「調布・多摩川」という場所性を分析する。あわせて、同時期に多摩川のそばに暮らし、『無能の人』で多摩川を描き、近年の調布市で正典化されつつあるつげ義春と詳しく比較する。両者が多摩川という場所をいかに異なるベクトルで描いたか、そしてなぜ畑中だけが公的な記憶から脱落したのかを明らかにしたい。 一 畑中純の出発点――小倉、九鬼谷温泉、そして版画 畑中純は1950年3月20日、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれた。彼の作品を貫く最大の特質は、九州の風土がもつ土俗性と祝祭的なエネルギー、生の躍動と死の気配が入りまじった原風景に深く根ざしている点にある。その描線は洗練された都会的なものではなく、つねに土の匂いと人間の体温を伴っていた。 1977年に『月夜』でデビューし、1979年からは『漫画サンデー』で代表作『まんだら屋の良太』の連載を始めた。架空のひなびた温泉地「九鬼谷温泉」を舞台に、主人公・良太を中心とする群像劇で、人間の剥き出しの欲望やユーモア、猥雑さ、そして自然との交感をおおらかに描いた傑作である。10年以上の長期連載となり、その圧倒的なバイタリティが評価されて1981年に日本漫画家協会賞優秀賞を受賞した。これにより、彼の泥臭くも生命力に満ちた作風は漫画史に確かな位置を占めることになる。 この作品の核心は、単なる日常喜劇を超え、日本人が近代化のなかで失いつつあったアニミズム的な世界観を、エロスという強い生命エネルギーを通じて取り戻した点にある。色っぽい月子や無邪気な少女たち、自然の精霊である河童や妖怪は、善悪や道徳といった近代の規範を超えた次元で生きている。この世界観は、のちの版画作品や、宮沢賢治をモチーフにした表現へと有機的につながっていく。 もう一つ重要なのが、独学で始めた木版画への並々ならぬ情熱だ。週刊誌の過酷な連載と並行して、彼は身体に負荷のかかる版画に没頭した。とりわけ宮沢賢治を題材にした版画群は、その芸術的野心の結晶である。『宮沢賢治、銀河へ』(1996年、ネスコ/文藝春秋)や『どんぐりと山猫』では、賢治の冷涼で幻想的な東北の自然観と、畑中が培ってきた南方的で豊穣な世界観が激しく反応し合っている。 木版画は、刃物で板を「彫る」という肉体労働を必然的に伴う。この直接的な身体性が、彼の作品に通底する「泥臭い生命力」を視覚的にも触覚的にも定着させた。版画集『増水警報』では、亀のタクシーや波の上の傘、魚と競争する少年など、一見すると童話的なモチーフを描きながら、水の音や匂い、肌触りを確かめつつ、水がもつ根源的な楽しさと、同時に襲ってくる自然の恐怖を板に刻み込んでいる。この「自然の猛威と生命の戯れ」という主題は、のちに多摩川を描くときの重要な補助線となる。 二 北九州市の顕彰――公的に「定番」となった畑中 畑中純は2012年6月13日、62歳の若さで急逝した。死後、その膨大な業績を体系的に集め、美術館という公的な枠組みのなかで顕彰したのは、晩年を過ごした調布市ではなく、故郷の北九州市だった。 北九州市漫画ミュージアムは、国友やすゆきや陸奥A子ら同市ゆかりの7名を「北九州が産んだ七色のマンガ家」としてまとめ、原稿や資料を収蔵している。コレクションは14万点を超えるが、なかでも畑中の扱いはとりわけ手厚い。没後まもなく画業40周年記念・追悼企画「畑中純展 小倉に帰ってきたどぉ~っ!」を開催し、漫画から版画までの全貌を紹介した。さらに2021年には収蔵作品展「畑中純 ~原風景~」を開き、原稿や版画、書籍など約140点を無料で公開している。 こうした継続的な顕彰の背景には、畑中が生前、北九州での作品展を積極的に開き、同ミュージアムの設立に向けた基本コンセプト検討委員を務めるなど、地元の漫画文化の制度設計に直接関わったという功労関係がある。北九州市にとって畑中は、都市の文化的アイデンティティを支える「生きた遺産」として、確かに正典化されているのである。 三 調布市の文化政策――水木しげるとつげ義春 北九州市が畑中を地域文化の核として手厚く守るのとは対照的に、彼が生活し、教え、多くの作品の舞台とした調布市では、公式の文化政策や観光振興の文脈で畑中の名が語られることはほぼない。調布市がどんな基準で漫画家を都市のシンボルに選んでいるのかは、現在進む二つのプロジェクトを見るとよくわかる。 一つは、名誉市民・水木しげるである。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』の作者であり、調布に50年以上暮らした水木は、市の基本計画でも「水木マンガの生まれた街 調布」の推進が最重点項目の一つに掲げられている。市は、古刹・深大寺や都立神代植物公園といった資源と妖怪の世界観を結びつけ、強力な観光拠点として運用してきた。近年は「生誕100周年記念プロジェクト」やNetflix配信の新アニメ『悪魔くん』と連動し、2024年11月からは「調布市×『悪魔くん』アニメ聖地巡礼マップ」の配布を始めた。アニメの「神調布」と実際の街を見比べて歩くこの企画は、水木プロや東映アニメーション、東京観光財団の助成を巻き込んだ大きな産官学民連携である。水木作品の高い認知度とキャラクターの展開しやすさが、観光経済政策に好都合であることを示している。 もう一つが、つげ義春である。水木が大衆娯楽と観光の象徴だとすれば、つげは近年「純芸術・純文学」としての権威を帯びつつある。つげもまた調布に50年以上暮らし、多摩川周辺の風景を多くの作品に描いた。受容を決定づけたのは、2026年3月3日に88歳で逝去したことだ。その直前の2026年1月から3月にかけて開かれた「マンガ家・つげ義春のいるところ展」は、入場無料ながらあらゆる世代から約15,000人を集めた。美術史家の山下裕二が一部監修し、『海辺の叙景』の全ページ複製原画が公開され、佐野史郎やヤマザキマリ、南伸坊ら美術・文学・映画の各界から多くの文化人がつげへの傾倒を語る、密度の高い構成だった。映画『無能の人』の上映や竹中直人のトークショー、大学教授による講座も組まれ、逝去直後には市立中央図書館で追悼展示も行われた。これらの企画は、つげの作品が劇画やサブカルの枠を完全に超え、調布市が誇る「前衛的かつ純文学的な郷土作家」として正典化されたことを物語る。こうして調布市は、大衆向けの水木と、知識層向けのつげという二つの文化資本をそろえたのである。 四 畑中が描いた多摩川――自然の氾濫とエロス 水木とつげが調布市の「表の顔」として顕彰される一方、畑中もまた調布と多摩川を深く愛し、その風景を作品の中心に据えていた。ただし彼の描く多摩川は、水木の妖怪の森とも、つげの静かなコンクリート空間ともまったく違う。そこは過剰な生命力と制御不能なエロス、破壊と創造が渦巻く混沌の場として描かれている。ここに、彼が公的空間から排除された最大の理由が潜んでいる。 代表作の一つが連作『百八の恋』だ。架空の「大多摩市」の梨園の息子・百成百八を主人公に、その止めどない性欲と激しい青春を赤裸々に描く。高校時代から常軌を逸した行為に及ぶ百八は、その後「調布大学・水産工学科」へ進み、多摩川の未来のために学ぶという建前を得る。物語の背景には「多摩川の氾濫による復旧作業」という土木的なディテールがつねに張りめぐらされ、歴代のヒロインたちが入り乱れる群像劇へと広がっていく。ここで畑中は、コントロールできない自然災害である「多摩川の氾濫」と、百八の制御不能な性衝動を比喩的に重ね合わせている。多摩川は単なる背景ではなく、人間の根源的なエネルギーの奔流を体現する生きた舞台装置なのだ。具体的な地名を用いつつ、そこを泥臭く猥雑で、しかし圧倒的にエネルギッシュな性の桃源郷として描いた点に、彼ならではの空間把握の特異性がある。 もう一つの重要作が、小学館から出た『理想宮』である。多摩川の川原でひたすら「石拾い」を続ける萩野建作を中心に、環境問題や現代建築の欺瞞、人間にとって理想の住まいとは何かが根源的に問われる。建作は、「多摩川に清流を取り戻す会」という市民運動に対して、自然保護の表面的な綺麗事に独自の哲学的な問いを投げかける。さらに彼は、完成まであと2週間という自宅の新築を、「デザインが気に入らない」という直感だけで一人で解体してしまう。石を一つずつ拾い集める地道で原始的な行為と、完成間近の建物を躊躇なく壊す暴力的な行為のコントラスト――これこそ畑中の芸術観の表れだ。自然物(多摩川の石)の質量と存在感の前に人工物の虚構性を突きつけ、破壊の焼け野原から己の理想を生み出そうとする野生の思想、ある種の無秩序な衝動が底流に流れている。 五 二つの多摩川――つげの「静」と畑中の「動」 畑中が多摩川を「生命の氾濫と破壊・創造の場」として描いたのに対し、同時期に多摩川のすぐそばに暮らし、同じ川を舞台にしたつげ義春のアプローチは対照的だった。両者を比べると、それぞれの作家性の輪郭が鋭く浮かび上がる。 つげは1978年から1993年までの15年間、調布市と狛江市にまたがる巨大団地「多摩川住宅」に暮らした。1968年完成のこの団地と、隣接する多摩川の土手、巨大な給水塔は、『無能の人』シリーズや『散歩の日記』の直接のモデルとなった。『無能の人』の「石を売る」というエピソードでは、主人公・助川助三が河川敷で、どこにでもある無価値な石を並べて売る。資本主義の効率からまったく外れたこの行為が淡々と描かれる。竹中直人が映画化した同作でも、多摩川住宅の道を家族3人が手をつないで歩くラストが、救いがないようでいて底知れず静かな叙情をたたえて映像化された。つげの描く団地のコンクリートや無機質な連なりは、高度経済成長期の規格化された生活空間の象徴であり、そこからこぼれ落ちた者が漂着する河川敷は、社会から隔絶された「静止した時間」の場所だった。 ...

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